昭和51年1月23日 月次祭 (末永信太郎)
いよいよ、寒修行も酣になってまいりました。もう、後十日余りで、寒修行も終わります。まだ寒修行に出ておられない方は、どうか一つ、工夫してでも、一日でも二日でも、皆さん、一生懸命のご修行ぶりを、または、その雰囲気の中に浸らせて頂くという思いででも、ぜひ、ご参加を願いたいと思います。合楽の信奉者全員が、やはり、合楽教会をあげて、まあ、本当を言うたら教団をあげて、この寒修行に取り組んでおるのでございますから、お道の信奉者、合楽の信者としての自覚を作らせて頂く意味合いにおいても、または、大払い信行の徹底がこう言われております只今。その、いわば、基礎作り、基本作りの意味においてでも、この信行をと言われておるのでございますから、ぜひ一つ、参加をされるといいですね。
今朝から、日田から、今、大変多うございます、この寒修行にお参りが。その中に梅山さんという方が、毎朝ご夫婦で参ってみえます。今朝、こちらへ向かってみえる、とにかく、日田の方は雪がひどいそうですから、車がすべって、まあ、道路いっぱいに滑ったようにして走るから、これはお父さん、いよいよ、これは危ないですばいち。と言うてその、ある、ちょうど家の前に止まらせて頂いて、何とか、その、チェーンは持っておられるそうですけども、自分ではめたことがないから、分からないて。
そしたら、ちょうど車が止まったところの家の方が、こう、いわば表戸をあけられて、で、中から出て来られた若いご主人が、自動車を出して、そして、そのチェーンをはめられるそうです。お父さん、もう、あの方にお願いしようというわけで、その人にお願いしたら、ああ、よかどこじゃありませんと言うて、まあ、チェーンをまいて頂いて、まあ、無事にお参りが出来たと言うのです。
熊本から松村さんが、毎日修行に打ち向かうてみえます。それは、昨日の話でしたけれども。ええ、標識が色々出ておるですね。それに、雪のために通行止めという、車が入ったのと、その標識が上がったのが一緒じゃった。本当にもう、神様が、まあ、こう一生懸命の思いでおれば、神様がお引き寄せ下さるんだなと、もう、ひとしおの有り難さでお参りさせて頂いたというお届けがございました。
もう、雪が降るから、寒いからというようなのではなくて、ね、それこそ、今朝の御理解じゃないですけれども、雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰せられた。ね。ですから、もう、今日は雨が降ったから、風が吹いたから、いや、そういう時にはご無礼しようという、初めからそういう風な決め方では、私は神様へ一心は届かないと思う。ね。
やはり、特にその修行という、なら、この寒修行なら寒修行という、これはもう、どうでもこうでもというような、一途なもの。今朝の御理解から言うと、ひたすらなものがいると思うのです。ただ、ひたすらに。ね、朝の、いわゆる、寒修行にはどうでもという、そのひたすらな心が、いわば、神様のそういう、梅山さんの今朝の体験と言い、松村さんの昨日の体験と言いです、そのひたすらなものを、神様が受けて下さるんだなあ、ということが分かりますでしょう。ね。問題は、神様が受けて下さらなければ出来んのです。
先ほど、栄四郎が何か読んでおりました。中にも、今朝から、今日私は、まあ、うかつにしてと言やあ、うかつにして。昨夜、こんなに沢山お水を頂きます。喉がしきろと乾きますから、飲み物をたくさん飲むんです。昨日は田主丸の共励会でございましたから、文男先生がおかげを頂いた。
私は、もう、眠ってしもうておりました。フッと目覚ましたら、布団の中に入って来てから、一生懸命、文男先生が足を揉んでくれてるんです。あれが普通であったら、夕べ来ましたけども、もう、親先生は休んじゃったから、もう、ご無礼しました、と。まあ、それで良いのですけれども。
ね、眠っておっても、まあ、ひょっとしたら起こしたかも知れんけれども、起きなかった。それでも、やっぱ足だけは揉んで帰ろうと言うので、足を揉んで戻っておったということが、まあ、途端に嬉しゅうなってから。まあ、揉んでもらって、喉が乾きますから、私に水割りをつくってくれと言うて、文男さんに頼みましたから、ブランデーの水割りを作ってくれました。
ほれは、もう、一気に喉が乾くから、薄いですからね、水で割りますから。飲んで、飲み干した。それでも、まだ喉が乾く。先生、あの、水割りというよりも、コーラで割ると、とても美味しいていう話ですから、と言うのです。んなら、コーラで割って、ただ、それから、それこそ一気にまた飲み干した。
これは、だいたいはブランデーよりも、ウィスキーの方がだいたいは本当ですもんねえ。ウィスキーがあるなら、ウィスキーの方がいいですけれどもと言うて、ウィスキーがあいにくない。して、こう見よったら、中あるんですよ一本。あの、何ち言うですか、まるいサントリーのウィスキーです。まあ、そんなら、それで一つ作ってもらおうかち。そすと、作ってもらったら、なるほど、ブランデーよりも、その方が美味しい。それを、また一気に飲んでしまってる。3~4杯、立て続けに飲んだんです。そうしても別にですね、その、大して酔うたとも思いませんでした。その、そんな弱い。ところが、寝てから酔うとる。
で、朝の、今日は、その3時15分には目が覚めてないわけ。直子と栄四郎が、たまたま、いつものこっじゃないです、滅多に休んだことはありませんけれども、今日は二人が早う起きて来れたから、まあ、よかったようなもんで、「親先生、親先生」て起こしよる。あっという、そして、起きたところがどっこい、その、(ひとめ)に立たれんくらいに、足がよろよろするんです。洋酒は足を取るということは聞いとったばってん、こげん足を取られるとは思わなかったち言う。
ほれから、洗面して、あの、家の廊下広いですかね。それを、もう、どうか、こっちん壁に行きゃあ当たる、こっちん壁に行きゃあ当たるち言ってから、ここへ出て来とりますです。(笑)それを、後ろから直子と栄四郎が付いて来てから、今日はどうした風で、やっぱ一生懸命急ぎんなさるけんで、ね、壁にぶつけよんなさっとるとじゃろうと思いよったところでした。ところがどっこい、実際は、その足を取られとるけん、もう、( )。ね。
そんなわけで、まあ、3時半にここへ出てまいりまして、三十分間、まあ、四時の御祈念に( )頂きました。まだ、そんな風に、いわば酩酊しとりますもんですから、まあ、御祈念のいわばお礼を申し上げることも、お詫びを申し上げて願ったりすることも、それこそ、後や先で御祈念を一通り終わってから、立った途端のところ、また、みょうな風ですもん。したら、入れ歯が入っとらん。で、(どこへずれる?)かと思いよったら、祝詞座の上に、こうちゃっと置いてから御祈念。(笑)ね。
そんな風にですたい、いわば、その酩酊しながらでも、足はちどり足なりにでもです、とにかく、ただ、一生懸命にご神前に出らせて頂く。そして、それこそ、ひたすらに祈っておる。そういう姿を、神様がお喜び頂いたのじゃないかと思うんです。もう、止め処がないほど感動がまいりました。ね。
もう、今日は酔うとりますけん、ご無礼します。今日の3時からの、みんなが修行生の方達が研修をいたします。そん時に、正教くんが発表しておりました。素晴らしい、その文章で書いて。もう、親先生は今朝から大変、それこそ、お酒たくさん召しあがって、きつうあんなさったろう、と。ね。それでも、やはり、こう、いつも八時半までですけども、今日はちょっと遅くなりましたから、やんがて九時という時まで、奉仕させてもらった。そういう先生のご修行態度に、もう、いよいよ頭が下がったという事です。
実は、そうじゃなかったんです。私は、もう今日は、もう、一区切り終わったら、お許しを頂いてから、とにかく下がらせて頂こうと思うておったんですけれども、次から次とお参りがあって。しかも、八時半に立つ時間にも、また、次々とお参りがあっとるから、立とうにも、いわば立てなかった訳ですけれどもね。
まあ、神様が顔を立てて下さったんでしょう。正教君はその姿に、言うならば触れて、まあ、御結界奉仕というものも、あのようにも、また厳しいものだという風に、まあ、頂いたというわけです。お食事をさせて頂いておりましたら、西岡先生がやってみえて。朝の御理解を収録させて頂いておりまして。昨日、研修をさせてもらう時に、上の先生方にお話をしてる。
最近は、もう、本当にお勇みがある。それこそ、もう本当に、いちいち神様が受け返事をしておられるかのように、お勇みを下さる。ここでも、研修を致しておりましてから、本当にそうだな、といったようなところには、もう、ピチーッとお勇みがあるんですね。2~3日前も、あの、主人がちょっとここに見える時には、自分が(おたふくさん)の自覚といったような、あの御理解を頂いたんですね。
そのことを、末永先生が言いよりましたら、家内がおたふくさんに見える時にゃ、自分がひょっとこの自覚に立たにゃと、そこば読み上げた途端に、その柱にカチーッとお勇みがあるんです。それは、もう、末永先生、もう、信心はこれですよ、と。主人が悪いの、家内がどうのじゃない。子供がどうの、周囲の者がどうじゃない。自分自身が、ね、例えば、人の非が見える時には、たしかに、自分自身の心の隙間、心の破れから覗いておるんだ。心が有り難いでいっぱいの時には、ね、それこそ、人の非などは見はしない。
そういう、一切がそういう頂き方で行くところに、信心の心はいよいよ成長して行くのです。というようにね、とにかくお勇みがずうっと激しい。ね。そこで、お勇みの有り難いことの話が出ておりましたから、なら、あの、お勇みというのは、神様がね、お喜び下さる。そうだと、そうだ、そうだと合点して下さるような時に、お勇みがあるのだけれども。それとは、今度は反対なこと。そげなことではいけないぞ、と。 そんなことは、もう、いっちょ止めんかというような時にも、お勇みがある。しかし、このお勇みには、それこそ頂いておって、ずうんとするように気持ちが悪いようなお勇みです。ダーッといったような、もう、何とも言い様のないようなね、嫌な感じがこちらに伝わってくるようなお勇みがあるです。ということを、お話いたしておりました。で、そのことを聞いておったもんですから、今日は、一生懸命、その、今朝のの収録をしておりますところにです、私が、(酔眼朦朧と?)という言葉を使って、今日わたしは、自分が酔っていた、酔って御祈念をしたことの事を、お話しておりました。(酔眼朦朧と)というテープから流れてくる。それを書き止めようとした途端に、自分の部屋に、私の写真を大きく伸ばしてから飾ってある。
その、私の写真に、もう、それこそ、ビックリするような、それも、嫌なダーッといったような、その、お勇みがあったち。ああ、昨日、親先生が、お勇みには、もう、それこそ澄み切ったような音で、神様が、心が生き生きとして、そのお喜びを現して下さるんだ。けれども、その反対に、神様が嫌な思いをなさる。そんなこっじゃいけん、そんなこっじゃいけないぞ、というお気付けを下さる時のお勇みは、それとは反対のことがあるよ、という話をしておりました。
そこで、よもやと言うので、今朝方、私がちょうどお食事をしておる時に、訪ねにみえた。ね。神様は、もう親先生だから、信者だから、修行生だからて容赦はない。間違ったところは、間違ったと、それは、なるほど、ね、自分で、ね、もう、明日の、朝ん御祈念はどうでんよか、と。今日はいっちょ、ゆっくり飲んでやろうといったような大着な心ではなかったにしてもです、ね、それが、喉が乾くから、ガブガブ飲んだのが、今朝の言うならば、ちどり足になっとったのですけれどもです。
いわば、酔眼朦朧であったのですけれどもです、やはり、神様へ向かう、その、ひたすらな心だけは、神様が喜んで受けて下さろうけれども、取次ぎ者として、そういう不注意なことであってはいけないぞ、と。ね、廊下いっぱいにちどり足で出て来んならんようなことではいけないぞ、と。ね。
酔眼朦朧と、テープに流れてくると同時に、そういうお勇みを、いわば、ね、神様が嫌な思いをなさっただろうという、そのことを、だから今日の、皆さんにもそのことを話して。ね。これは御取次をさせて頂く者の心がけとしてです、ね、自分の勤めねばならない時の時間というものを、どんなに大事にしなければならないか。これは、取次をさせて頂く者の心掛けだよと言うて、まあ、お話をしたことですけれども。これは、取次者だけのことではありません。お互い、信心を進めさせて頂く。しかも、ひたすらにという信心を求め、そして、精進させて頂いておるのに、ちょっとした不注意やら心得がです、おかげを落とすような素になってはならんのでございますから、これは、信心のけいこをするもの誰しもが、心掛けておかなければならんということでございます。
今朝から、明日から、また、学院生がみんな帰ります。それで、正教くんが、色紙を持って来て、何か一言書いてくれと、こう言う。ほれで、何を書いてやろうかと思わせて頂きよったら、まあ、しきりに、雪が降って、今日はおりました。で、私の頭、あの、中に、まあ、「しみじみと大払い信行のきの雪」と書いてやりました。しみじみと大払い信行のきの雪。今、合楽の信心の焦点は、ここでございます。
学院に帰っても、やはり、これだけは合楽と一緒に、共に修行をして行かなければなりません。言うならば、今年の焦点。いわゆる、合楽に御神縁を頂いておる方達の隅から隅まで、ひとつ、この信行に取り組ませて頂いて。ね。勢をそろえればと仰せられる、その勢信心のおかげを頂かせて頂くために、ね、皆で大払い信行をやってるわけです。あんた方も、それこそ、ね、雪が降ろうが、ね、どうしようが、どんなことがあっても、これだけは続けなさいよという、まあ、私の願いを書いたのでございます。ね。
ですから、先生が口を開きゃ、この頃、信行のことを言われるから、ね、はじめてみようかでも良いし。ね。たびたび言いなさると言うて、やはり、聞き流しておったんではです、勢がそろわない。それでは、本当なおかげにはならない。本当に、合楽行きという、言うなら、特別仕立ての、まあ、バスならバスがあるならばです、それに、みんなが一緒に同乗させて頂いてこそ、初めて、合楽行きであります。ね。
まだ皆さんの中には、ね、その大払い信行をはじめようともしてない方達もあるかも知れません。ぜひ、今夜からでもはじめて頂きたい。ね。決して、初めてから有り難くなるというようなことはありませんけれども、合楽に御神縁を頂いておる者の、これは、まあ、勤めと思うて、大払い二巻でも三巻でも、五巻でも十巻でも、ね、だんだん有り難うならせて頂いたら、これを本気で実行させてもらう。
そして、無条件で、あれを頼まねばならん、これを願わねばならんからというのではなくて。ね。そういう信心の、一つの姿勢を作らせてもらう。いよいよ、合楽の信者じゃ、信奉者という自覚も、いよいよ強くなる。ね。そして、無条件での神様へ打ち向かうということが、こんなに有り難いものであるということが分からせて頂くまで、もう後は、ね、それまでなんです。ね。
それは、本当に有り難いことになります。先ほど話しました梅山さんたち夫婦でないですけれども、2~3日前の晩、夜の御祈念を終わらせて頂いてから、コタツに入っとったら、電話がかかってきた。東京からの息子から。大払い五巻をあげて、今、終わらせて頂いて、今から休むところだ、と。お父さん、どうですか、みんな元気ですかという電話がかかってきた。いやあ、今、私どももお母さんと二人、大払いを終わって、今、コタツに入ったばっかりだったと言うて、申しましたというお届けがありました。
そん時にね、もう、本当に神様が感動まします思いが致します。親子の間に、そうした親子同盟が出けて。ね。同じ時間を計らって、そして、一緒に大払いをあげて、今、御祈念を終わった後、電話がかかってきたら、いや、私たちも、今、大払い信行を終わらせてもろうて、コタツに入ったばっかりだ、と。こういう風に、親子の信心が、ね、続けられて行くなら、子供も安心なら、親もまた、子供に対する安心である。
このようにして、信心の継承が出けて行く。このようにして、一家をあげての信心が出けて行くという雰囲気をです、銘々の家庭にどうでも頂かせてもらいたい。ね。皆さん、どうぞ大払い信行と同時に、もう、十日余りになりました寒中修行にもです、何とか、それこそ、車がない時、何なり、一遍だん、それこそ、( )でもいいじゃないですか。ね。一家中で来りゃあ、五人なら五人で来れば、早足でも大したことはない。一遍でも、例えば、無理をしてでもです、そういう、合楽で今行われておる信心の焦点。
しかも、その焦点に向かって、寒修行の焦点も、また、そこにおいておかげを頂いておる。そういう、一つの動向。ね。合楽の信心の動向にです、やはり、足並みが揃わせて頂かなければ、合楽をあげての力にもならない、また、銘々の信心にもならないと思うのです。ね。
どうぞ、一つ工夫してでも、ね、無理をしてでも、後十日間の大払い信行を、いよいよ、盛り上げて行きたい。信行開けには、いつもの毎年のように、茶粥会がございます。皆さんの、まあ、信心体験発表のようなことも、確かにあるようになっとります。ですから、それ前に一つ、寒中修行に参加させてもろうて。ね。いよいよ、本当の意味においての合楽示現活動に参画する、その心を、大払い信行に求めて行こうというのが、今度の大払い信行のはじまりであります。ね。
その姿勢を、また作ろうというのが、今の寒中修行でございますので、どうぞ、ご参堂頂いて、おかげを頂いてもらいたいと思います。親先生の、あれは、二月何日じゃった?ああ、二月八日ですね。これは、まあ、あの、月次の、一日の月次祭でもいいですけれども、親先生の一年の式年祭がございます。どうぞ、皆さんも今から(心祈念?心積み?)をして、合楽から百名参ることになっとります。皆さんも、どうぞ一つ、お参りが出ける方は、今から工夫しておいて、お参りに参加出来ますように、お願いいたします。どうぞ。